CRUISE INDUSTRY-2000 of cruise-ok



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2001年ニューヨークで起こった同時多発テロは、クルーズ産業にも多大な影響を及ぼした。しかし、そんな状況下にも拘わらず、2002年にクルーズを体験したアメリカ人は前年を上回る700万人台に達した。さらに2005年までの4年間に、約50隻もの新造船たちが市場に加わるであろうとも言われている。
一方、平成元年をクルーズ元年と定めスタートした日本のクルーズ産業は2000年の22万人をピークにマーケットは伸び悩み、船旅はまだまだ我々にとって遠い世界のものだ。なぜ両国間にこれほどの差が生まれたのか。ここ十数年のクルーズ産業の歩みを振り返ってみたい。

アメリカにおけるクルーズ産業


船旅といって、我々が即座に頭に浮かべるのが「クイーンエリザベス2世(QE2 ) 」に代表される豪華客船、それもアメリカ、ヨーロッパ間を結ぶオーシャンライナー黄金時代の優雅な船旅ではないだろうか。22345.jpg写真をクリックすると拡大表示されます。
しかし彼女が世に姿を現した60年代後期には旅客機がすでに大西洋定期航路運行をスタートし、彼らオーシャンライナーの時代は終焉を迎えようとしていた。
そして客船たちは新たな活路を模索していたのであった。 
それから約20年の年月が流れ、1988年、アメリカ屈指のリゾートとして知られるマイアミに、世界最大(73000トン )とも言われる大型客船が突然姿を現した。港のあるビスケイン湾沿岸のマッカーサー通りは、思いがけぬ来客に交通がストップし、沿道は客船を一目見ようとする人々で埋め尽くされ、数時間にわたり交通は麻痺したと言われている。
当時、客船といえば3、4万トンクラスが主流であったのだから、マイアミっ子たち達の驚きは容易に想像できよう。
新聞は「港はその客船のために二つのピアを要し、船内に吹き抜けのアトリウムや巨大な劇場を備えるそれは、今までの客船の概念を大きく崩すものである。」と紹介した。その客船の名は「ソブリン・オブ・ザ・シーズ 」オーナーはローヤル・カリビアン(RCCL)という客船会社であった。
RCCL社は70年代に多くの客船会社がクルーズビジネスから撤退する中、社名が示すように自然に恵まれたカリブ海海域がショートクルーズを組めることに注目し、大衆層を主なターゲットに急成長を遂げる客船会社であった。
そして彼女のデビューに続くかのように、90年には「ファンタジー 」、91年に「リーガル・プリンセス 」というほぼ同サイズの客船がカーニバル社とプリンセス社からカリブ海クルーズに向けてデビューした。
クルーズがアメリカで徐々に脚光を浴び始めた頃でもあり各新聞、TVはそれら客船をかっこうの材料として紹介した。やがてそれが功を奏したのか、クルーズは彼らアメリカ人達にカジュアルなレジャーというイメージを定着させ、普段、船旅に興味のない人々の関心を引きつけることになる。
またアメリカの客船会社の多くがクルーズをバケーションのひとつと捉え、それを“フライ&クルーズ”とノルウェー198.jpg写真をクリックすると拡大表示されます。いうバケーションベースのパッケージで販売したことも当たった。それにより、旅行会社は他の商品と比べクルーズが短時間で捌ける効率の高い商品であることに気づき積極的に扱うようになったのである。
やがてクルーズ産業は、90年初頭からのアメリカ経済の上昇という追い風に乗ってマーケットは順調に成長していった。振り返れば90年代はまさに新造船達の時代であった。2000年までの間に、主要な客船だけでも60隻以上もの客船が市場に姿を現した計算になる。
それも90年代半ばになると96年の「カーニバル・ディスティニー 」(101353トン )を筆頭に、98年「グランド・プリンセス 」(109000トン)、99年に「ボエジャー・オブ・ザ・シーズ 」(142000トン)が登場するというように、客船の巨大化はさらに加速されていく。船内にはロッククライミングやアイススケートリンクなど 、おおよそ客船とは無縁の施設も登場し、客船アミュージュメント化の傾向が進み始めたのもこの頃であった。成熟するマーケットに伴い 、新たにいくつもの客船会社達が市場へと参入した。セレブリティ社は著名なシェフをパートナーとし料理のすばらしさを前面に現代感覚溢れた高品質の客船としてプレミア層のハートを掴んだ。客船「飛鳥 」で知られる日本郵船を親会社に持つクリスタルクルーズ社はベビーブーマー世代をターゲットに、最高級のサービスで確固たる地位を築いた。
クルーズとは無縁の異業種からの参入もあった。
ラディソンダイヤモンド社はホテルビジネスを展開するラディソンホテルインターナショナルによって設立された客船会社で、上質でエレガントなサービスは海の上でも高い評価を得た。また、世界的なテーマパークなどで知られるあのウォルトディズニー社のクルーズ事業進出は、これからのクルーズ産業のあり方に大きな波紋を投げかけた。
やがてクルーズマーケットの拡大は舞台をヨーロッパへと移し、さらなる展開を見せることになる。
先陣を切ったのは「スプレンダー・オブ・ザ・シーズ 」(7万トン、96年、地中海、エーゲ海 )「グランド・プリンセス 」(109000トン、98年、地中海、エーゲ海)「ミレニアム 」( 91000トン、2000年、北欧、地中海 )といった、やはり大型客船達であった。彼ら客船達は歓待され、客船会社は将来におけるヨーロッパマーケットの手応えを感じた。
一方クルーズ産業のグローバル化とともに、環境問題という新たな課題に直面することにもなる。実は客船会社は、アラスカで過去に何度か航海中に排出された煙が地元規定値をクリアーできずに州政府に巨額な罰金を科せられた経緯があった。就航エリアのバルト海、スカンジナビア、ハワイも含め、地球規模で環境保護が叫ばれる中、クルーズ業界ではそれらに対し一定のガイドラインを設ける動きが持ち上がってきた。
そんな経緯を踏まえ二十一世紀になると、ほとんどの客船会社は今まで主流となるディーゼルエンジンから有害な酸化廃棄物排出の少ないガスタービーンや新タイプのディーゼルエンジンへの移行、そして安全面において真剣に考えるようになった。 
クルーズ産業は常に熾烈な競争を強いられ、毎年のように合併買収といったニュースが紙面を賑わせた。
記憶に新しいものではカーニバル社によるキュナード社(98年)とコスタ社(96年)の買収がある。キュナードといえばあのQE2を保有するイギリス名門客船会社であり、一方コスタ社はヨーロッパ最大の客船会社だ。
すでに客船会社数社を保有する彼等の買収により世界のクルーズマーケットにおけるカーニバル社の地位は確固たるものとなった。ところが2001年秋、さらに衝撃のニュースが業界を駆け巡った。
業界最大手でもあるカーニバル社(CCL )とローヤル・カリビアン社(RCL )によるやはり業界大手でもあるP&Oプリンセス社(POC )の大型合併・買収だ。
もともと2001年秋にRCL社とPOC社との間で合意されたかに見えた経営統合は、買収という話を持って横槍を入れてきたCCL社によって再び白紙に戻されることになる。
当初CCL社が提示した金額に難色を示すPOC社であったが、最終的に54億ドルという額が提示されたことで、POCの株主達の心が揺らいだのである。
そして2002年秋、CCL社によるPOC社買収が確定した。これにより世界のクルーズマーケット勢力図は再び大きく塗り替えられた。
2000年度に、アメリカのクルーズ産業全体にもたらされた収益は17.9ビリオンダラー(約2兆1600億円 )。
航空機やホテル、商店など、今やクルーズ産業は地域社会に経済効果を巻き起こすまでの巨大な産業へと成長を遂げ、アメリカ経済を支える主力産業のひとつともなった。
しかしテロ事件以降、ルネッサンスやアメリカン・クラシック・ボエジャー社のように、一方で市場から撤退する客船会社も出るという現実もあり楽観視はできない。
アメリカの経済に支えられたクルーズ産業であるだけに、今後の動向が気になるところだ。 

ヨーロッパのクルーズ事情 

DSCF1395.jpg写真をクリックすると拡大表示されます。
アメリカからの客船が多数ヨーロッパへ進出し、押され気味のあるヨーロッパの客船会社たちにあって健闘しているのが、ギリシャ、ピレウスに本社を置くフェスティバル社だ。フランスの会社(投資家たち )による長期用船契約によって運営されるフェスティバル社は「ヨーロッピアン・スタイル 」をコンセプトに低価格DEG_4272.jpg写真をクリックすると拡大表示されます。な料金で地中海、エーゲ海など魅力的な寄港地を訪れ、今やヨーロッピアンのブランドとなりつつある。
早くから新造船を地中海、エーゲ海に配給し、現在運行されている「ミストラル 」は 47276トンと大型だ。2004年までには、昨年デビューした「ヨーロピアン・ビジョン 」(58600トン )と同クラスの客船2隻がさらに船隊に加わり、今後もアメリカの客船会社にとって強力なライバルとなるであろう。 

日本のクルーズ事情 


「クルーズ人口100万人時代 」これは1998年5月に客船事業懇談会によって、平成20年のクルーズ人口の目標として掲げられた数値である。
クルーズ元年(1989年 )から14年、133700人という数値でスタートした日本の客船乗船人口は、現在約20万人と増加したものの目標とする数値にはほど遠く、まさにそれは遠い世界の話になってしまいそうだ。なぜこのような結果となってしまったのか・・・。
それは日本、アメリカ両国の歩んだ道(時代背景 )が全く異なっていたことにも原因があるようだ。
クルーズ元年と言われる1989年、ちょうど日本はバブル経済に踊り、究極という言葉やものがもてはやされた時代でもあった。
「飛鳥 」が我々の前に姿を見せたのは91年12月。しかし、我が国最大の本格的客船として鳴り物入りで彼女がデビューした頃バルブは弾け、日本経済には暗雲が立ちこめようとしていた。
皮肉にもメディアの多くは客船「飛鳥 」= 船旅(クルーズ )を“究極の贅沢”として紹介し、いつしか我々とクルーズの間に大きな隔たりを作ってしまった。「にっぽん丸 」(90年 )、「おりえんとびいなす 」(90年 )など、他の日本の客船たちがデビューしたのもちょうど同じ頃だ。「ぱしふぃっくびいなす 」(98年)は遅れてのデビューであるが、飛鳥0015.jpg写真をクリックすると拡大表示されます。それは成長したマーケットに対応してのものではない。
日本の客船たちが料金的にも皆ほぼ横並びというのもそれぞれを同一視させる結果となり、客船の数は多くなったもののそれほど日本人たちの乗船意欲を掻き立たせることにはならなかった。
もともと上昇する日本景気に後押しされるようにスタートしたクルーズ産業の思惑は、早くも暗礁に乗り上げた格好となる。
確かに世界一周(約95日間)やオセアニアクルーズ(約40日)など長期のものであれば客室は埋まるかもしれない。
しかし、年間を通し集客できなければけして健全なビジネスはできない。
惜しむらくは低価格な料金で欧米的にサービスを提供してくれたサン・クルーズ社とスター・クルーズ社のアジアの客船たちの存在だ。
不運にも「サン・ビスタ 」(サン・クルーズ社、かつてのセレブリティー社のメリディアン )は航海中に火災を起こし沈没(99年)してしまったのだが、それでも販売から半年間で約1100人もの日本人が乗船した。
またスタークルーズは、数隻の客船を駆使し97年から日本、台湾、韓国間のショートクルーズを就航させ、2001年3月に日本から撤退するまで数多くの日本人が乗船、今日の日本人クルーズ人口の底上げとイメージアップに大いに貢献してくれた。しかし、それらはもういない・・・・・。